2021/10/13

夏のおわりの谿底で

 


例年よりひと月も早くに中喜屋から誘いがかかった



”いつもの本流へ行きますがどうですか やまめが居る谿底ですよ” と



今年の夏は雨が多かったこともあり

どこへ出向いても谿沢の水は高く遡行するのに難儀させられる事が多々あった

しかしそれ以外 つまり谿歩きを除けばその高水自体が特に問題になることは少なく

かえって付処がはっきりしていた事もあり効率の良い釣りになった


と 記せば体裁は良いがこれは単なる後付け論に過ぎない

言わば”釣り人特有の戯言”だ


実際には水が高かろうが低かろうが

あっちからしら こっちかしらと 形振り構わず

全てをかなぐり捨て いつも通りの所業を毎度繰り返していたにすぎない

そしてその結果

脇の弛みや大岩の抉れに避難して居た哀れなさかなをどうにか掛けられただけだ

手短に言うと”たまたま”そうなっただけである


--- 言わぬが花とはよくいったものである ---


そいう状況なら誰ったてさかな達が脇に避けていることぐらい承知のはずで

(毎回そんな状況なら いくらボンクラでも三度目くらいには気がつく)

だから効率が良いとか手間が無いとかとりたてて言うほどの事ではないのである


とにかく釣人というのは誇張や自慢が過ぎる傾向にある

釣り終えると頭の中の記憶を都合よく改ざんしたり入れ替えたりするのだ

加えて その所業をドラマチックかつ大袈裟に色を加えたりする事も忘れない

ここまではまだ良い(実際は相当に鬱陶しいが)

中でも手に負えないのが

そもそも生き物相手の遊びにコレだといった正解などある筈もなかろうに

手前の選択こそが最善の答えであるなどと思い込み

さらにはその最善策を頼まれもしないのに触れ回る

挙句には何をとち狂ったか書物にしたりする輩も出現するではないか、、、、


まあ別に自身の欲求を満たすのはかまわない

かまわないが勢い周りを巻き込むから質が悪い(巻き込まないと成り立たないので)


とにかく気付いているのかいないのかは分からないが

そういう輩はなにかと事実に彩を盛り格好をつけたがるのである

そしてとどめは 達観しきった様に玄人っぽいセリフを添える事を忘れない

(これは誰かの事を指しているワケでは決してない 祖先の墓に誓って)



夏のおわりの日の話にもどろう


あの日 彼はいつもより楽なルートを辿って入渓させてくれた

ここ3シーズンいつも同じ時期に同じ場所へと案内してくれるのだけれど

段階を経る様に(歳を重ねる毎に) 年々徐々にふんわりと谿底へ不時着させてくれる

あれがワタシの要望(ワタシへの労りなのか)に応えてくれてのことか如何かは分からぬが

とにかく一昨年より昨年

昨年より今年と 身体(老体)に優しいルートを使って谿底まで導いてくれた事は事実だ

この調子なら 来年はきっと眠っているワタシをおんぶしていってくれるに違いない



先に水が多いとか何だとか言っておいてなんだけれども

あの日に限っていうと

谿底は何時だったかのような酷い増水もしていなかったし

今年巡ったどの谿沢よりも水は低かった

というよりも全くの平穏な流れ 夢にまでみた平水であった

だからと言って 最後まで尻が濡れずに済むなんてことにはならなかったけれどね



流れ穏やかで水清くお天気だって悪くない

毛鉤を落とす筋に至ってはそこいらじゅうにあった

しかも釣り始めて早々にいわなが掛かり

さらには彼がそのすぐ三尺かそこらくらいカミ手の淀みで良いやまめを引き当てた


これで良い日にならないわけがないと二人とも確信する(誰だってそう思うはずだ)

が しかしそうはならず その後しばらくは何も起こらなかった

何百も何千通りもある流れの筋と筋 淀みという淀みに毛鉤を浮かべてはみたが

ドラマチックな事などはなにも、、、


全く何も起こらなかったと言えばウソになるけど

感覚的には何も起こらなかったも同様だった


別に沢山釣りたいとは思わないが

あれほどまでに事が起こらないと”何でも良い”から釣れて欲しいと節に願うようになる


当り前だけど釣れないよりは釣れた方が気分的には”よい”し

少ないよりは沢山釣れたほうが尚よよいの”よい”である

なのであまりに応答が少ないと気分が”わるい”と云う事になってくる

わるいと云うと誤解を招くかも知れないけれど

通常”よい”の反対は”わるい”と現す以外にないので

これについてはわるいと言っても差支えなかろう


中には”まあまあ”みたいな中間をとって穏便にといった考え方もあろうが

許容狭小なワタシにその考えは無いので

わるい時は何と云われようともわるいとなるのである


せっかく誘って頂いておきながら わるいわるいと散々な言い様だが

(一応怨念やらその他諸々が残らぬよう言っておく)

別に「中喜屋めこんな日にこんな所へ連れてきおって」なんて意味の ”悪い” ではない事だけは声高々に申し述べておきたい


確かに オレが流した直ぐ上で奴さんがやまめを掛けやがった時は

流石にオマエさんなんて事をしてくれるんだねと 心の中で大きな声をあげさせてもらった

なにしろワタシが流した時は鉛筆みたいないわなが食らいついてきただけなのに

彼には色艶も良く体躯の広いやまめが釣れたのだからね


でも あれはある意味傑作だった

あの日一番の愉快な出来事だったとも言える

何がどうして愉快なのかを説明するのも面倒なので端折るけれど

あの開始直後の数分間に起きた一連の出来事こそがあの日一番の出来事だった

そして正にあれが全てといっても良いと思う

とにかく出だしはそれくらい幸せな雰囲気だったのだ



可笑しな事だけど

あまりに釣れないと数釣りが恋しくなる

木っ葉がぽんぽん釣れるのは面倒だけど釣れないよりは幸せだと

そんな気がしてくるのである

もちろんそれは気のせいで 

いくら数を増やしたところで実際には幸せな気持ちにはならない


では何が幸せなのかと云うと それは良い(さかな)のが獲れることに尽きる

(何が良いさかななのかを言葉にするのは難しい)

では何が良い魚なのか、、、と問われれば明確に答える事はできない(窮する)

それでも敢えてその”良い”を現すとするならば

ある人にとっては”大きさ”でまたある人にとっては”容姿の美しさ”かもしれない

その他にも釣るまでの順序立てや

釣り場までの道中に起こった出来事や目にした風景なんかも加味されるかと思う

とにかく一言では現しきれないのである

ましてや何について価値を感じるか(あるか)といった個々の観念や概念となると尚更である

けれど 結局のところ それについてはどうでも良いと思っている


釣れれば愉しいし

釣れなければ悔しい

なんだかんだと云ったところで仕舞いはそれに尽きるのだから



よってあの日も

ひとときの幸せと愉快な気分に再び浸りたい一心で

黙々と毛鉤を振り谿を遡り続け

(多くの人には無益で無駄な努力にも見える事に全力を尽くし)

いつ訪れるとも知れぬ愉快な野次り合いだけを心待ちに尽力した


そんな野次り合戦自体はそれ程多くはなかったけれど

終わりよければ、、、、という言葉に倣えばあの日は間違いなく良き一日であったと言える

事実 予報を覆すくらいの好天で そしてさかなだってそれなりに釣れたのだから



晩夏に良き釣人と供に 暗い谿底で

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